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信州遺産の輝き 佐久編

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記事制作:
KURA
信州遺産の輝き 佐久編

荒廃地を開拓した神を祀り、用水開拓や先進的な教育機関の設置など、古くから、この地の人はまちづくりに積極的だった。北陸新幹線佐久平駅前の開発・整備で人気の移住地に息づく、開拓精神の歴史を巡る。

明治時代、廃仏毀釈を免れた農村の奥にたたずむ三重塔

のどかな田園風景が広がるこの地は、日本に2つしかない五稜郭のひとつ「龍岡城城趾」のある場所として知られている。駅名にもその名が付くほどだが、その近くに1100年以上もの間、静かにたたずんできた新海三社神社を知る人は、意外に少ないのではないだろうか。
すっと伸びる杉の参道が荘厳な雰囲気を醸すこの神社は、佐久地方開拓の祖伸・興波岐命、御父神・建御名方命、御伯父神・事代主命、誉田別命の四神を祀り、東本社、中本社、西本社の三社から成ることから名付けられた。武運の神として知られ、源、足利、田口、武田、徳川、大給などの名将たちが参詣し、社領寄進・神殿再建などにも貢献したといわれている。「風林火山」の武田信玄も、永禄8(1565)年、上州箕輪城攻略の折りに戦勝祈願文を奉納し、見事勝利を収めたという。
新海三社神社の神宮寺の塔として建立されたのが、柿葺き新海三社神社三重塔だ。永正12(1515)年の建立のこの塔は端正で、その堂々たるたたずまいは威圧感を感じさせるほど。歴史の重みがその風情を醸すのだろうか。三間三塔姿で初重、二重、三重で絵様繰型を変えるほか、さまざまな部分でデザインが少しずつ異なるという凝った意匠。とりわけ、初重の屋根を支える垂木は扇状の禅宗様、二重・三重ではまっすぐに垂木を張った和様と、和様・禅様を織り交ぜているところが全国的にもめずらしく、東本社と同様に国の重要文化財に指定されている。
明治に入り、神仏分離となり廃仏毀釈の世状のなか地元民は神社の宝庫ということにしてこの塔を守った。その時代、多くの価値ある建物が政治や時代の潮流に飲まれて消えていった。そのなかで今に残る三重塔はじめ三社は、雄弁に積み重ねてきた歴史を物語っているようだ。

新海三社神社三重塔

住所
佐久市田口2394
電話
0267-82-9651
アクセス
JR小海線臼田駅からタクシーで10分、中部横断道佐久南ICから30分
住所
佐久市田口2394
電話
0267-82-9651
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神社敷地の北東に立つ三重塔。初重は扇垂木、二重・三重は平行二軒繁垂木の形式
拝殿の背後に立つ西本社と中本社。朱色の材と施された彫刻が鮮やかだ

災害復旧完工の佐久の国・重文

旧中込学校の校舎は佐久市に残る国の重要文化財である。完成したのは明治8(1875)年。国内の学校建築のうち現存する最古の擬洋風建築物のひとつであることは周知のとおりであるが、建物を建築設計したのが地元出身でアメリカに渡り建築学を研究した棟梁・市川代治郎氏である点、日本人の手による明治初期木造洋風建築の様式を知ることができる点など、学ぶべきものが残る建物だ。また、当時の下中込村全戸からの寄付により建設されていることも見逃せない。
今、150年の年月を経て、なお、私たちに変わらぬ美しい姿を見せてくれるのは、復元や修繕を重ねつつ、信州に残すべく大切な日本近代遺産として守られてきた賜である。洋風のベランダ。純和風の寄棟造の妻入桟瓦葺きの屋根。そして漆喰塗りの壁、建物中央にそびえる細身の八角の望楼に風見鶏は和洋折衷。
明治から令和まで、建つ位置が変わっていないのも、人々が守ってきた愛を感じられる。令和元年東日本台風の被災による復旧工事も完了し、真っ白な漆喰壁が蘇っている。

旧中込学校

住所
佐久市中込1877
電話
0267-63-5321(佐久市文化振興課文化財事務所)
住所
佐久市中込1877
電話
0267-63-5321(佐久市文化振興課文化財事務所)
昭和46(1971)年から2年がかりで解体復元、平成7(1995)年にも保存修理が行われているが、明治から今日まで位置が変わっていない
大正8(1919)年まで学校として使用。その後、町役場や公民館などに転用

大工事の末、ブランド米を育み、地域を救った

江戸時代の一大工事が、全国でも有数のブランド米〝五郎兵衛米〟を育んできた。佐久市浅科地区(旧五郎兵衛新田村)を流れる用水路「五郎兵衛用水」が、平成30(2018)年8月、建設から100年以上経過し卓越した技術、かんがい農業の発展、貢献した施設として「世界かんがい施設遺産」に選ばれた。広く豊かな田園地帯に通る1本の用水路。蓼科山麓の清水と粘土質の土壌に恵まれ、緑の絨毯を敷いたような佇まいに、秋は浅間山を見上げる水田一帯に、はざ掛けの稲穂が黄金色に並び秋の浅科の風物詩ともなっている。しかしながら、この地域はかつて自然災害と戦乱により荒れ果てた大地だった。
江戸時代初期、幕府から新田開発の許しを得ていた上州南牧羽沢の豪族であった市川五郎兵衛真親が私財を投げ打って完成させたのが、「五郎兵衛用水」だ。佐久地域の三河田新田などをすでに手掛けた実績もあり、小諸藩から許可を得て一大事業に乗り出した。蓼科山中に水源を探すところからはじまり、細小路川と鹿曲川との合流点で取水し、矢島原まで水を引いてくるという工事は、高度な土木技術と大量の資金と労働力が必要で、それを市川五郎兵衛が挑み、開墾し新田開発を成し遂げる。
用水路の長さは全長20㎞。難所では掘貫(トンネル)を掘り、「築堰」と呼ばれる盛り土の水路を築くなど、当時の最新土木技術が採用されている。

五郎兵衛用水

住所
佐久市甲
電話
0267-58-3118(佐久市五郎兵衛記念館)
住所
佐久市甲
電話
0267-58-3118(佐久市五郎兵衛記念館)
昭和30(1955)年代の大改修を経て、今でも佐久市一帯やお隣の東御市の農地を潤す大切なインフラとなっている
長さは1000mにも及ぶ田んぼ地帯を貫く用水路。長野県史跡に指定されている

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