真物は語る。伝えるべき食の在りかたを
竜湖畔 壹傳

すっ、と何の気負いもなく置かれた最初のひと皿。水底で身をよじる鯰向付に盛り込まれているのは、春の景色。ホタルイカにアサリ、軽く炙った帆立、ウルイ、椎茸、蕗の薹の天ぷら。それぞれに異なる手法やダシで火入れした春の味を、まろやかな黄身酢を添えつつ楽しめば、愛嬌たっぷりの鯰の表情が現れる。裏の意匠も味わい深いこの向付、北大路魯山人の真物だ。特別なことではない。これが『竜湖畔 壹傳』の日常である。
「器は料理を盛ってこそ器。飾るだけの器には意味がない」と大江憲一郎さんは言う。これはまさに魯山人の精神の正鵠を射るものであり、「食器は料理のきもの」の言葉にも通ずるものだ。八寸やお造りは、大皿に人数分を盛り込み、ゲストに銘々取り分けてもらう趣向。これはなに? おいしそう。こちらもどうぞ。そんな会話を楽しみながら、ゲストもまた、料理の世界に一歩入り込む。伝えたい味、伝えたい景色、伝えたい物語が、料理と器、そしてその提供のスタイルによってより鮮やかに胸に落ちる。
20歳の頃からいくつかの老舗料理店で日本料理の五体系を学び、30歳にして「銀座古窯」の料理長に就任。故郷である山形の味わいをより洗練させたかたちで楽しませたのちに、「パーク ハイアット東京」開業とともに「梢」の料理長へと就任。堅実なる伝統的日本料理に郷土料理のあたたかみ、フレンチやイタリアンのモダンさを柔軟に取り込んで、大江さんは『竜湖畔 壹傳』を自らの現在とした。
表は溜塗、見込みは本朱の輪島塗の椀は、蓋を開けた瞬間の香りと景色がすばらしい。混然と、しかしすっきりとしたダシの香りは、そのまま味わいにも通じている。頃合いよく叩いた大正海老のしんじょうのぷつりぷつりとした食感、にじみ出る香ばしさと甘み。海老芋の淡い土の香りとねっとりした旨み。椀の中の役者たちに薄絹一枚の旨みを着せて、とんと背中を押してやる。そんなダシの働きに、どれだけの繊細が満ちているのか、と唸ってしまう。進肴として供された聖護院大根と氷見ブリの煮物もそうだ。聖護院大根はブリのダシで優しく煮ておき、氷見ブリの身は一晩塩に漬けたのちに最後にさっと炊いて火を落とす。ブリの皮がとろとろきらきら、身はほくほくしっとり。ブリの味のしみた大根がじゅんわりとほどけ、どちらも主役の味わい。味付けは、酒と塩だけ。ブリのダシを十分にひきだし、しみ渡らせているから、これ以上の旨みはむしろよけいなのだ。
料理する手元を覗き込みながら、できたてを頬張りながらの大江さんとの会話が実に楽しい。素材の話、調理法の話、器の話。歴史や文学、美術、芸能などあらゆるジャンルを横断しながら展開する四方山話に、ついつい酒杯も重なってゆく。『壹傳』の「壹」は大江さん自身。大江さんがいちばん大切にしているものを広く伝える場であり、食の伝道者である大江憲一郎さんそのものを後世に伝える場ともなるだろう。


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- 取材・文:ナルトプロダクツ
- 写真:池上勇人