仏教によって建設された 浄らかなる都市、平泉
平泉

平泉の世界遺産を読み解くキーワードは「浄土」である。それは藤原氏三代が築き上げた、仏のおわす理想世界であった。平泉を浄土の視点から見ると、そこが日本仏教史上第一級の文化遺産であることがよく分かるのだ。

5つの資産からなる平泉の世界遺産
平泉が世界遺産に登録となったのは、2011(平成23)年のことだった。この年東北は千年に一度という途方もない災害に見舞われたのだが、6月の決定には、闇の中に一条の光が差し込む思いがした。
世界遺産平泉の正式な資産名は、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」というものである。そして「中尊寺」「毛越寺」「観自在王院跡」「無量光院跡」「金鶏山」の5つの構成資産から成っている。
平泉は12世紀のおよそ百年にわたって栄華を極めた陸奥の都市であるが、藤原氏の三代が日本史上まれにみる財力をもとに、平泉の地に仏の国を具現化した「浄土世界」(理想郷)を造り上げたのである。平泉の世界遺産認定に当たっては、その独自性と普遍的価値が評価されている。
平和を希求した初代藤原清衡
藤原氏初代の清衡が江刺から平泉へと進出するのは、1095(嘉保2)年ころのことだった。清衡は東北を掌握する過程の「後三年の合戦」で、骨肉相争う激しい戦乱を経験したことから、平泉の地に仏の住む浄土世界の建設を決意した。
そして清衡が造営したのが「中尊寺」であった。清衡の時代から900年が過ぎた現代では、建築として「金色堂」が残るのみであるが、鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』には、当時の壮大な伽藍群が記録されている。それによると9mの阿弥陀仏と九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂(大長寿院)」、釈迦如来を百体安置した「百体釈迦堂」、釈迦如来と多宝如来を安置した「多宝寺」、両界曼荼羅の諸仏を安置した「両界堂」、第一級の経典を収めた「一切経蔵」、そして「金色堂」など、実に40余りの堂塔と300余りの禅坊があったという。
戦火と平泉の荒廃
平泉にはその後二代基衡による「毛越寺」と基衡妻による「観自在王院」、三代秀衡による「無量光院」などが、都をしのぐほどの規模で建設された。
1189(文治5)年、栄華を極めた藤原氏は、源頼朝によって滅ぼされるのだが、各寺院は戦火を免れた。そして頼朝は平泉の途方もない伽藍と仏像に驚嘆し、その保護を命じている。ちなみに頼朝はその後、鎌倉に中尊寺の二階大堂を模して二階堂(永福寺)を建立している。
平泉の寺院は鎌倉幕府を始め、時の権力者によって保護されてきた。しかしそれは決して万全なものではなく、後に火事による焼失もあって、戦国の世にはもはや荒廃を極めるまでになる。戦国時代が収束し、伊達政宗が平泉の領主となったとき、中尊寺は金色堂のみ、毛越寺には池のみしかなく、無量光院はその実態すらなくなっていたのである。
平泉を保護した伊達家
伊達政宗は仙台藩を開いてのち領内を巡視し、諸寺の保護などを決めている。大きな寺では領地(寺領)を持ち、そこから上がる収穫物を収入の柱としているのだが、中尊寺などの寺は伊達家から領地の所有が改めて認められ、さらに無税地として保護優遇された。
伊達政宗を始め歴代藩主は、金色堂の修復など、建物の保全を行っている。特に文教政策を積極的に行った四代藩主綱村は、金色堂の大修理や「高館義経堂」の建立、遺跡の保全、各所への杉の植林など、平泉にも積極的に援助を行っている。
毛越寺などは伽藍や庭園の跡がほぼ完全な形で残っていたおかげで往時の姿がわかるのだが、綱村の保護政策がなければ、おそらく耕作地になって、何もわからなくなっていたと思われる。
極楽浄土を表した金色堂
国宝金色堂。現在は鉄筋コンクリートの覆堂の中に納められ、ガラス越しに拝観する形になっている。金色堂は昭和の大修理までは、現在隣にある木造の覆堂に護られていた。そして建立当初の金色堂は、しばらくそれのみで立っていたと考えられている。
金色堂は、中尊寺に残された唯一の建築物であり、寺による維持と伊達家を始めとした時々の為政者の保護によって、伝えられてきた。
金色堂の本尊は阿弥陀如来である。そして堂内の荘厳な装飾物は、阿弥陀の世界である「極楽浄土」を具体的に表現している。金色堂はその名の通り、あらゆるものを金箔貼りとし、柱には漆と金粉を用いた蒔絵と、南方の貝を用いた螺鈿を使い、仏世界の花々である宝相華と仏像を描いている。
装飾具である華鬘に配された迦陵頻伽は、極楽に住む妙なる声の人面鳥である。つまり、金色堂の内部は極楽の世界であり、極彩色のきらびやかな光と、迦陵頻伽の美しい声、そして草花の馥郁たる香りが漂っている。その浄土の世界をぜひ想像してほしい。
そして須弥壇の中に納まっている歴代の藤原氏は、阿弥陀如来の極楽浄土で来世を生きているのである。
日本仏教美術の至宝、中尊寺経
金色堂とともに平泉の至宝といわれるのが、いわゆる「中尊寺経」である。中でも初代清衡の発願によって作られた「金銀字交書一切経」は、壮大な経典である一切経を現在の価値で数十億ともいわれる金額で宋から輸入し、8年の歳月と膨大な人手を費やして写経制作したものである。それは実に5300巻ほどからなるもので、藍染の和紙に経文を金字と銀字で一行ごとに交書し、表紙や見返しには美しい仏世界を描いた、まさに我が国の写経美術の傑作といわれるものである。
この金銀字交書一切経は、現在中尊寺に15巻ほどが残っている。実は和歌山の高野山金剛峯寺には4300巻ほどが伝わっており、それは天下統一を成し遂げた豊臣秀吉がそのとてつもない価値を知り、平泉から持ち出した歴史による。
中尊寺には数多くの工芸品などが残されており、まさに平安仏教美術の宝庫といえるだろう。



中尊寺
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町字衣関202
- 電話
- 0191-46-2211
- 開館時間
- 8:30~17:00(3月1日~11月3日)、8:30~16:30(11月4日~2月末日)
- 休館日
- 無休
- 料金
- 1000円(金色堂・讃衡蔵・経蔵・旧覆堂)、それ以外の境内は無料
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町字衣関202
- 電話
- 0191-46-2211
- 開館時間
- 8:30~17:00(3月1日~11月3日)、8:30~16:30(11月4日~2月末日)
都の大寺をもしのいだ毛越寺
藤原清衡の跡を継いだのは、二代基衡だった。その基衡が造営したのが「毛越寺」である(完成は三代秀衡の時)。今は当初の建築物はなく、庭園があるのみだが、かつてそこには「円隆寺」「嘉勝寺」などの堂塔以上が並び、外には僧坊500以上があり、吾妻鏡には「吾朝無双(わがちょうむそう)」(我が国では他に並ぶものがない)と書かれ、中尊寺をもしのぐ寺ともいわれた。
中心伽藍の金堂円隆寺は大泉が池の北向こうにあった。そのため池の中島を通って金堂に渡るよう、橋が2本架かっていた。その橋脚の跡が今でも池の中に見られる。
藤原基衡はこの寺を造るにあたり、本尊の薬師如来と脇侍わきじの十二神将の制作を、中央の仏師雲慶に依頼し、巨万の報酬を支払っている。それが桁外れであったことから、当時の都人が大いに驚いたことが記録に残っている。さらに時の鳥羽上皇が、あまりの出来栄えから、仏像を平泉に運ばせないようにしたほどである。
雄大な自然が表現された庭
毛越寺は1226(嘉禄2)年、円隆寺などを焼失し、その後の戦国時代には戦火などによって、南大門や残っていた堂塔も失った。そのため創建当初のものは池しかないのだが、幸いにも礎石などの遺跡が良好に残っていたため、国の特別史跡と特別名勝に二重指定されている。大泉が池を中心とする庭園は東西190m、南北mの広さがあり、はるか古のおおらかな姿を感じさせる。
この池は大海を表しており、岸辺には海岸に見立てた州浜や、石組みで拵えた荒磯や築山がある。そして池の中には波返しである立石がシンボリックに立てられ、景観を引き締めている。さらには川に見立てて水を引き入れていた遣水も発掘されており、当時曲水の宴が行われていたとも推定されている。
毛越寺の池の北側には鮮やかな朱色の堂塔伽藍が並び、その西にはなだらかな塔山が風景の一部としてあった。
仏の世界を表した浄土庭園
毛越寺の庭は仏の世界を表した「浄土庭園」である。金色堂が堂内の仏像と装飾で浄土を表しているのに対し、こちらは仏像を安置した寺院建築とその前に広がる園地によって表現されている。
毛越寺の浄土庭園は、平安時代の作庭書である「作庭記」の技法を用いており、日本の庭園の歴史の中でも極めて貴重なものである。さらに、私たちには当たり前に思える自然を取り入れた庭造りは、日本独自のものであり、自然崇拝思想との融合であるとして、世界遺産の評価点のひとつになっている。
毛越寺の東隣には「観自在王院跡」がある。これは二代基衡の妻が建立したもので、舞鶴が池を中心にした浄土庭園であり、北側に2棟の阿弥陀堂があった。この浄土庭園も平安時代の作庭法にのっとったものである。観自在王院跡は長い間水田となっていたが、昭和の末に園地が修復された。


毛越寺
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58
- 電話
- 0191-46-2331
- 開館時間
- 8:30~17:00(3月5日~11月4日)、8:30~16:30(11月5日~3月4日)
- 休館日
- 無休
- 料金
- 700円
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58
- 電話
- 0191-46-2331
- 開館時間
- 8:30~17:00(3月5日~11月4日)、8:30~16:30(11月5日~3月4日)
無量光院跡
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立
- 見学自由
- 見学自由
浄土とは何か
平泉の世界遺産は「浄土」がキーワードであり、浄土を表す建築、庭園、遺跡が評価された。ではこの浄土とは何なのか。一般的に浄土とは、仏が住む世界のことである。そこには仏の教えのもと、煩悩も穢れも争いもなく、清らかで満ち足りた、美しい世界が広がっているという。
日本では浄土というと、はるか西方にある阿弥陀如来の世界の「極楽浄土」を意味するようにも思われている。しかし本来の浄土はそれぞれの仏が住む世界のことであり、例えば薬師如来の住む世界は東方にあり、「浄瑠璃浄土」と呼ばれている。6世紀に伝来して以来、独自の発展をとげた日本仏教では、現世に仏の世界である浄土を現すことができるとも考えられたのである。
極楽浄土と阿弥陀信仰
浄土、特に阿弥陀如来の住む極楽浄土への往生(行って生まれ変わること)の願いは、平安時代に貴族の間に広がっていった。そして藤原氏を始めとした都の貴族は、阿弥陀如来の力にすがり、阿弥陀如来像と阿弥陀堂、そして浄土庭園の造営を行った。現存するその代表例が、藤原頼道が宇治に造った「平等院鳳凰堂」である。
平安時代に貴族は栄華の極みにあったのだが、やがて平氏や源氏などの新興勢力である武士が戦乱とともに台頭し始め、貴族たちの間に不穏の予感が漂い始める。そしてこの時代、さらなる不安要素として、「末法(まっぽう)」の到来があった。
仏教では、仏陀(釈迦)が亡くなってから正法、像法の世を経たのち、末法の世が到来するとされていた。末法の時代には仏教が廃れ、人心が乱れ、世の中が大いに混乱すると考えられていた。それは釈迦が入滅して千年後の1052(永承7)年ともされ、日本では平安時代の後期にあたった。宇治の平等院はまさにこの年に造られているのである。
西方におわす阿弥陀如来
さて、そのような時代にあって藤原氏三代の秀衡は平泉に「無量光院」を建造した。無量光とは阿弥陀仏の発する光明であり、阿弥陀そのものをも意味している。無量光院は礎石のみが残り、池の場所は田んぼになっていたのだが、戦後の発掘調査の結果、壮大な浄土庭園と伽藍があったことが確認された。
秀衡は宇治の平等院を模して無量光院を造ったとされているが、実に平泉の無量光院は平等院より一回り大きいものだったことが分かった。
無量光院は、阿弥陀如来の極楽浄土を表現している。本堂の前に池が置かれ、池の中に中島があった。この本堂が阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂である。そしてその堂内は荘厳な装飾を施し、極楽世界を表現していた。本堂の両脇には平等院と同じように、鳳凰の翼に見立てた翼廊(よくろう)などの伽藍が延びていた。
そして阿弥陀堂の背後には金鶏山があった。無量光院は、中島、本堂、金鶏山が、西に向かって一直線に並んでおり、そのような場所を選定して建設されたのである。西とは阿弥陀如来の極楽浄土の方角である。そして夕日は西にある金鶏山の先や、毛越寺の塔山、中尊寺の関山の方角にも沈んでいた。おそらく無量光院では、阿弥陀如来や極楽浄土をひたすら思い浮かべる「観想念仏」が行われていたと思われる。
頂点を迎える阿弥陀信仰
発掘で詳細が分かった無量光院は、我が国の浄土庭園の最高傑作との評価もされるようになった。近年中島と池の復元整備が行われ、水をたたえた池と西の向こうになだらかな金鶏山がある風景を見ることができる。
藤原氏の阿弥陀信仰の痕跡は平泉にとどまらず、福島県いわき市の白水阿弥陀堂は初代清衡の娘徳姫が、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂は三代秀衡の妻が建立したと伝わっている。
阿弥陀如来に関しては平安時代以降、阿弥陀を信仰すれば臨終の際に阿弥陀如来が迎えにやってくる(来迎)という考えも盛んになった。阿弥陀如来は西方十万億土の彼方から多数の菩薩を引き連れて枕もとに訪れ、極楽浄土に導いてくれるとされた。そうして死者は極楽浄土に生きるのである。宇治平等院の雲中供養菩薩像や京都三千院往生極楽院の阿弥陀三尊像などはまさにその様を表現しており、当時は阿弥陀来迎図も数多く描かれたのである。
平泉の聖なる山、金鶏山

平泉の世界遺産構成5資産のひとつである「金鶏山」。比高60mと小さく、町民でなければどれがそれか分からないほどなのだが、藤原氏の時代金鶏山は神聖な山として、寺院を造る上での重要な基準点となっていた。そして当時は山頂から平泉のすべてが見渡せたと思われる。
金鶏山の山頂には藤原氏が納めた「経塚」がある。経塚とは仏教の経典を埋めた塚のことである。前述の末法思想の中では、末法の時代を迎えると仏教が廃れて世の中が乱れた世界になるとされた。それは釈迦の後継仏である「弥勒菩薩」が救済にやってくる、56億7千万年後まで混乱が続くとされたため、その時まで仏教を守り伝える目的で、経典を聖なる場所に埋めたのである。藤原氏の造った経塚は各地にあり、宮城県では南三陸町の田束山が知られている。
金鶏山には平泉の護りとして雌雄一対の金の鶏が埋められているとの伝説があり、南の登り口には源義経妻子の墓と伝わる五輪塔がある。
平泉の政治の中心だった柳之御所遺跡
平泉の世界遺産では、それを構成している資産(中尊寺など)に関連して、次の機会での拡張登録を目指している資産(場所)が5つある。それらは「柳之御所遺跡」「達谷窟」(以上平泉町)、「長者原廃寺跡」「白鳥舘遺跡」(以上奥州市)、「骨寺村荘園遺跡」(一関市)である。
このうちの柳之御所遺跡は、これまでの発掘により吾妻鏡に記されている「平泉館」(政庁)の可能性が高まった。そこからはずば抜けて多くの遺物が出土したため、工事を予定していた遊水地の堤防と国道4号バイパスのルートが変更され、その場所は国の史跡に指定された。柳之御所遺跡は現在史跡公園として公開されており、隣接して「平泉世界遺産ガイダンスセンター」がある。
柳之御所は始め藤原氏の居館であったのが政庁になったと見られており、その後の居館である「伽羅之御所跡」も近くにある。また近接して「道の駅平泉」もできており、周辺一帯は歴史観光の新しいゾーンになっている。

柳之御所遺跡
- 住所
- 手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所
- 住所
- 手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所
- 見学自由
- 見学自由
田村麻呂伝説の伝わる達谷窟
達谷窟は平泉から一関市の景勝地厳美渓に向かう道沿いにある。寺伝によれば坂上田村麻呂が蝦夷を平定した折、この場所にたてこもっていた蝦夷の首領である悪路王を退治したという。田村麻呂は蝦夷征伐ができた御礼として京都に清水寺を建立し、達谷窟にも清水寺を模した毘沙門堂を建てたとされる。境内にある蝦蟇が池付近はかつて伽藍を備えた浄土庭園だったという。達谷窟は古くからの霊地であり、江戸時代には伊達家の祈願寺になっていた。毘沙門堂の隣には、凝灰石の崖面に岩面大佛(磨崖仏)が彫られてある。

達谷窟
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16
- 電話
- 0191-46-4931
- 開館時間
- 8:00~17:00(3月19日~11月3日)、 8:00~16:30(11月4日~3月18日)
- 休館日
- 無休
- 料金
- 500円
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16
- 電話
- 0191-46-4931
- 開館時間
- 8:00~17:00(3月19日~11月3日)、 8:00~16:30(11月4日~3月18日)
芭蕉も訪れた高館義経堂
中尊寺の南東、北上川を見下ろす高台には「高館義経堂」がある。ここは世界遺産関連の資産ではないが、観光客の多くが訪れる場所になっている。
1189(文治5)年源義経は、源頼朝の圧力に屈した藤原氏四代泰衡によって追い詰められ、妻子とともに自害する。そしてその年に頼朝の大軍が平泉に攻め込み、泰衡は殺害され、平泉はあたかも幻であったかのように滅びてしまう。
義経が自害した邸宅はこの高館にあったと伝えられてきた。高館義経堂は仙台藩四代藩主伊達綱村によって建てられたもので、中には義経の木造が安置されている。高館からは北上川を見下ろす眺望が素晴らしい。その先には 西行が桜の見事さに驚いたという束稲山が横たわっている。ここは松尾芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」の句を残した場所でもある。

高館義経堂
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14
- 電話
- 0191-46-3300
- 開館時間
- 8:30~16:30(11月5日~21日)8:30~16:00)
※11月21日~3月14日は冬季休業
- 休館日
- 無休
- 料金
- 300円
- 住所
- 岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14
- 電話
- 0191-46-3300
- 開館時間
- 8:30~16:30(11月5日~21日)8:30~16:00)
※11月21日~3月14日は冬季休業
サイト掲載日
雑誌掲載日
※本記事の情報は掲載時の情報です
- 取材・文:菅原ケンイチ
- 写真:菊地淳智
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