圧倒的仏像群を誇る東北の名刹
慈恩寺

圧倒的仏像群を 誇る東北の名刹
山形の名刹慈恩寺には、秋が訪れていた。この寺が東北でも屈指の仏像の宝庫であることを、知る人は少ない。実に国の重要文化財が30躯、県指定の文化財が19躯も残されており、その様はまさに壮観といえる。
ここ数年、仏像が注目され、新たなファンが増えているという。仏像は日本が世界に誇り得る造形芸術である。そこには単に美しいというだけではない、美を超越した深い精神性もが刻まれている。日本人が千年以上も心の拠りどころとしてきた仏の形。そうした神仏への意識は、今も私たちの深層にあるのだろう。とすればこの迷いの時代の中、人々が仏像に何事かを感じ取るのは、むしろ自然な事かもしれない。
高速道で山形盆地を横断し、寒河江インターチェンジで降りる。正面には霊峰葉山が見えていた。古い時代には出羽三山のひとつに数えられていた信仰の山である。慈恩寺はその麓にあった。西の奥には月山が厳かに聳えている。
参道を登り、江戸時代の仁王門をくぐる。慈恩寺はいわゆる山岳寺院である。石垣の先、広い境内地の中心に豪壮な本堂があった。
拝観をお願いして中へと入る。外陣には天井画が描かれており、その下に掛かるいくつもの巨大な絵馬が、この寺の由緒を物語っている。その奥、結界とした格子戸の先が内陣である。中央に宮殿と呼ばれる大きな厨子があった。宮殿の中には、慈恩寺本尊の弥勒菩薩像を始めとした、33躯の仏像が収められている。それらはすべて秘仏であり、拝観は許されていない。

昭和55年に文化庁が宮殿内の仏像を初めて調査した。担当者は、予想を遥かに上回る仏像の素晴らしさに、驚嘆したという。そうして慈恩寺の名が、広く世に知られるようになった。
内陣には宮殿を取り囲んで、多くの仏像が安置されている。これらを拝観するだけでも見事なものだ。正面中央には弥勒菩薩像が静かに座っている。「お前仏」と呼ばれる、秘仏の本尊の代わりに拝む仏様である。弥勒菩薩は釈迦が亡くなって後、56億7千万年後にこの世に現れ、迷い苦しむ衆生を救う仏という。
内陣東側に聖徳太子十六歳の孝養像があった。胎内からは、700年前に佐賀の僧侶が奉納した血書のお経が見つかっている。信仰の篤さと、この寺の大きさを改めて想う。堂内を巡り、仏像一つ一つから仏のまなざしを感じる。慈恩寺の本堂内陣に、凛とした空気が満ちていた。


都の文化と仏像が 直接入り込んだ歴史
地方(奈良、京都以外)である東北の慈恩寺に、なぜこれほどまで見事な仏像群があるのか。
寒河江は、古くは都で権勢を極めた藤原摂関家の荘園であった。鎌倉時代以降の慈恩寺は大江氏、最上氏といった有力武将の庇護を受けていた。そのことにより、慈恩寺に京都の最先端の仏像がもたらされたと考えられている。寺に残る平安、鎌倉の仏像はほとんどが京都で造られ、運ばれたものという。寒河江は日本海と最上川を通じて京都とつながっていたのである。
江戸時代に最上氏が改易されると、寒河江は幕府の直轄地となり、慈恩寺には2812石という、東北最大の朱印地が与えられた。こうして慈恩寺は一山に三か院48坊を有する大寺として繁栄を極めたのである。
本堂を出て境内を歩き、阿弥陀堂に向かう。阿弥陀堂は現在公開していないのだが、特別に中に入らせてもらった。小さなお堂の中、阿弥陀如来が坐っておられる(前ページに写真掲載)。平安時代後期の作であり、当時の貴族たちが一心に拝んだ仏の姿である。藤原時代(平安後期)、仏教はまだ貴族中心のものであり、仏像も貴族の好みを反映した、おだやかで洗練された姿をしていた。
阿弥陀如来とは、はるか西方の極楽浄土に住む仏である。平安の末期は、釈迦の教えが廃れて乱れる末法の世と信じられ、貴族たちは極楽への往生を阿弥陀如来にひたすら祈った。
薄暗いお堂の中、阿弥陀如来に手を合わせる。仏の薄く開いた半眼の目は、全てを見通しているように思え、厳しくそして優しく何かを語りかけてくるように感じた。それは己の心の照り返しなのかもしれない。この阿弥陀如来は、慈恩寺では長らく釈迦如来とされてきたものである。
阿弥陀如来坐像の前には、華麗な宝冠を頭に載せた阿弥陀如来像が座っていた。如来でありながら菩薩の姿をしており、「宝冠の弥陀」と呼ばれている。粗末な衣だけの如来に対し、菩薩は一般に豪華な装身具を着けている。如来は悟りを開いた仏だが、菩薩は修行中の仏、如来に代わって衆生を救済する仏とされ、釈迦の王子時代の姿で表される。

阿弥陀堂の隣に、同じく小さな薬師堂が立っている。ここは拝観が可能であり、中に素晴らしい仏像が収められている。観音の扉からお堂に入ると、目の前にきらびやかな薬師三尊像が並んでいた。そして背後には躍動する十二体の薬師守護神が列をなしている。
平安貴族の仏と鎌倉武士の仏の姿
薬師の三尊さらに十二神将という薬師グループが、これほど見事な仏像でそろっているのは、全国的にも珍しい。堂内15体の仏像は全て国の重要文化財に指定されている。中でも十二神将像の一群が特に素晴らしい。これらの仏像が、本来の場所であるお堂に置かれている。そこはまさに仏のおわす、厳粛なる祈りの空間なのである。
薬師如来は、はるか東にある浄瑠璃世界(瑠璃光浄土)に住むとされる。手に薬壺を持ち、その名の通り人々の病や心の苦しみを除いてくれる仏である。両側には日光菩薩と月光菩薩が立っている。薬師如来に従い、昼夜あまねく衆生を救ってくれる仏である。中尊の薬師如来像は墨書銘から、鎌倉後期に中央の院派の仏師が造像したと分かっている。
一方十二神将像は鎌倉中期の作である(4体は江戸時代の後補作)。どれもが力をみなぎらせ、個性ある躍動的な姿で表現されている。それでいて不自然をきたしていないのは、やはり中央の力ある仏師の手によるためと思われる。十二神将は薬師如来を守護する神でありそれぞれが7千の部隊を引き連れているといわれる。
鎌倉時代になると、時代は貴族から武士の手に移る。同様に仏教も新しい時代を迎え、仏像は武士好みの力強く写実的な表現に変わってゆく。慈恩寺の十二神将像は、そうした鎌倉時代の特徴をよく現している。十二神将像の頭には、それぞれ十二支の動物が載っている。参拝者は自分の生まれ年の神将を見つけて、その像に手を合わせるのである。
慈恩寺には長い歴史の中で、法相宗を始め、天台宗、真言宗、さらには葉山と関連する修験道も入ってきた。それらの異なる宗派を併存させながら現在に至っている。今の慈恩寺の宗派は慈恩宗であり、その本山となっている。
江戸時代まで繁栄を見ていた慈恩寺にも、明治維新とそれに続く神仏分離の波が及び、寺領をなくした寺は衰退を余儀なくされる。秋の慈恩寺は静かなたたずまいを見せていた。現在は3か院17坊が一山を守っている。

慈恩寺
- 住所
- 山形県寒河江市大字慈恩寺地籍31
- 電話
- 0237-87-3993
- 開館時間
- 堂内拝観 9:00~16:00
- 休館日
- 無休
- 料金
- 堂内拝観料700円
- 住所
- 山形県寒河江市大字慈恩寺地籍31
- 電話
- 0237-87-3993
- 開館時間
- 堂内拝観 9:00~16:00
- 仏像は本堂内陣と薬師堂のみ拝観可
- 「弥生五尊」御開帳時は参拝料1200円(令和7年は5月17日~7月21日、9月13日~11月24日)
サイト掲載日
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※本記事の情報は掲載時の情報です
- 取材・文:菅原ケンイチ
- 写真:菊地淳智