達人と歩く、宮城の山城
岩出山城(城山公園)

今、城がブームなのだという。城マニアがSNSを賑わし、各地の城では来訪者数が大幅に増えている。宮城にも古いもの、小規模なものも含めるとたくさんの城跡が存在する。この連載では県内の城を研究している専門家に案内してもらい、中世に築かれた城の中でも代表的な「山城」を歩いて、その魅力を探ってみようと思う。
記念すべき第一回目は、本誌でもお馴染みの郷土史家・菅野正道さんとともに、大崎市の岩出山城を訪ねてみた。


今回の達人
菅野正道さん
仙台市出身。東北大学大学院卒。元仙台市史編さん室長。現在はフリーで郷土の歴史を研究。主な著書に『せんだい歴史の窓』(河北選書)、『伊達の国の物語』(プレスアート)がある。
あえて山城を歩く理由
まず「山城」とは何なのか。その名の通り山に築かれた城であり、歴史的には戦国時代のものが多い。菅野さんによれば、宮城県の城はもともと千ほどあったものが、戦国時代の戦乱の中で集約されてゆき、江戸時代の初期には30ほどの数になっているという。
よく城=天守(天守は天守閣の正式な呼称)と思われがちだが、城とは建物だけでなく、区画も含めた軍事施設全体のことである。そして戦国時代の山城では建物はほとんど残っていない。
では、今回の連載はなぜ山城なのか。山城の魅力について、菅野さんに伺ってみた。「近世の城郭は絵図もありますし、施設も発達して分かりやすいのです、 古い時代の山城は記録がほとんどありません。そして城の施設や地形の一部が崩れてしまったり、木が生えていたりすることも多いのです。ですから山城はぱっと見は分かりにくいのですが、現地を歩いて想像しながら、当時の姿を読み解いてゆく、その作業が面白いですね」


徳川家康が改修した岩出山城
岩出山城は今の町の中心部に隣接し、内川と蛭沢川に挟まれた城山に築かれている。伊達政宗が仙台に入る前はここを居城としていたのだが、政宗以前には大崎氏の重臣である氏家氏の城の時代が長く続いた。かつての岩出山は交通の要衝の地であった。中新田から一関方面に向かう主要道路と、江合川沿いに出羽に通じる出羽街道があって交わっていたのである。
伊達政宗が米沢から岩出山に移ったのは、天正19(1591)年のことであり、豊臣秀吉の命令による。このとき、秀吉の配下にあった徳川家康とその家臣が岩出山の実相寺に40日ほど滞在して城の改修を行い、政宗に引き渡している。「40日ではすべての改修はできないので、家康らは縄張(設計)と基礎工事をし、その後は政宗が改修工事を引き継いだものと思われます」と菅野さん。


きわめて細長い地形の本丸跡
まず町の商店街がある東側から城山の登り口に行く。この登り道は後からつけられたものであり、かつての正門というべき大手門は、今の岩出山小学校の登り口にあった。現在岩出山小学校や岩出山高校がある場所は、城の二の丸跡である。
今は城山公園になっている山を車で一気に登り、本丸跡の駐車場に出る。本丸は城の守りの最後の砦であり、一般的に山の一番高いところに造られる。本丸跡には今は閉鎖になっている売店やトイレなどの建物があった。
本丸は自然の地形を利用しているようで、南北に150m以上あるが、幅は最大でも20m程とかなり細長い。「戦国時代の山城はそれほど大きくない曲輪をたくさん構成するのが一般的ですが、江戸時代の城は曲輪の規模が大きくなります。岩出山城の本丸はもともといくつかの曲輪に分かれていたものを、家康がひとつにまとめた可能性があると思われます」と菅野さん。曲輪とは城を構成する区画であり、「郭」とも書く。
本丸跡の南側に内門跡の標示があり、両側が石垣になっていた。江戸時代には地紙門とも呼ばれたという。菅野さんはこの石垣を観察し「それらしく積んではいますが、石の配置が不自然なので昔の石垣ではないですね」と教えてくれた。そもそも古い山城に石垣はほとんどないのだそう。


仙台城にあった伊達政宗像
内門跡から南に出ると、広い区画の金丸跡があった。ここには大きな伊達政宗像が立っている。この像は戦後の一時期、仙台城にあったものだ。
戦前の仙台城には、今のものと同じ政宗の騎馬像があったのだが、戦時中の金属供出に出されてなくなり、終戦後に政宗の立像がコンクリートで造られて新しく置かれた。しかしその後、戦前の騎馬像の型が見つかって再度造られたので、コンクリートの立像は政宗ゆかりの岩出山城址に移されたのである。

政宗の時代に拓かれた城下町
金丸跡からはかつての城下の町並みが見える。商店街を通る道は当時の出羽街道だ。そしてこの町並みも家康らが設計したものと考えられる。それまで城の東側は江合川の氾濫原であるため、もともとの集落は城の西側にしかなかった。
しかし政宗が居城を移すことにより多くの家臣団や寺社、商人が米沢からやってくることもあり、東側に治水と防衛を兼ねた土手を巡らせ、その内側に城下町をつくった。それが今の商店街がある中心部である。
この時代、領主が本拠を移すときには、寺社や商人町も一緒に移動するのが通例で、今現在仙台にある伊達家ゆかりの寺社や、中心部の商人町もそのようにして移動を繰り返した。
城下町の改変により城の正面はそれまでの西側から東側へと変わり、大手門は出羽街道に面して設けられた。
本丸を守っていた空堀
私たちは本丸跡から西に階段を下り、斜面に沿った細長い公園広場に出た。階段は傾斜がきつく、結構な高低差があった。「今はならされてますが、絵図によるとここは本丸の下を囲うように空堀があった場所です」。空堀とは水のない堀であり、敵の侵入を阻むために掘ったものだ。
「当時の侍は15㎏から20㎏の鎧をつけ、食糧など自分の持ち物と2、3本の刀のほか、敵味方を区別するための旗を背負っていました」。それを聞くと本丸下の急斜面や空堀は、簡単には登れない構造になっているのがよく分かる。
空堀の南西下には二の丸や、その北側にもいくつかの曲輪があった。「江戸時代、二の丸は岩出山城の実質的な中心でした。今は小学校と高校になっているので、地形もだいぶ変わってしまいました。しかし背後(東側)を断崖で守られた本丸と、その下の西方向に広がる傾斜面に造られた曲輪群、さらにその下の蛭沢川沿いに城下集落を置いた姿は、戦国時代によく見られるものですね」と菅野さん。
最大の見どころ、西下の空堀
空堀跡から天王寺館と呼ばれた城の北端に登り、そこから回るようにして城の西麓側に出た。戦国時代には城の正面だった側である。私たちは絵図にある下の空堀を目指している。一帯は杉林となっており、道もなく下草が伸びていた。もはや城マニアでなければ来ない場所だ。
「この空堀は最大幅20m、長さは400m以上ある大規模なものです。これまでほとんど紹介されなかったのですが、この城最大の見どころといってもいいですね。長い年月でだいぶ埋まりましたが、場所によっては現状よりも2~3m深かったのではないかと推測されます」。実際に現地を見て、その規模の大きさに感動した。これではまともに侵入することが難しく、当時の城の守りの堅さに改めて驚いた。
「普通、戦国時代の山城では、曲輪のヘリを切岸(斜面を人工的に削って険しくすること)で済ますのですが、より堅固にしたようですね。このような構造は戦国時代の東北にはないので、やはり家康の改修時に造られたものと思われます。岩出山城は家康の改修があったので、戦国の城館の要素と近世の城郭の要素が混在しています。そのことが面白いですね。城下町も含め、過渡的な形態を示す城郭といえます」
総構の貴重な遺構、土塁
最後に私たちは許可を得て、大手門跡近くの私有地を訪ねた。ここからは大崎市教育委員会文化財課の菊地優子さんも案内してくれる。「岩出山城の東麓には南北に街道が走り、その道沿いに町人の屋敷が配されました。江戸時代の絵図を見ると、そうした町人の屋敷と城を隔てるように土塁と堀が描かれています。この土塁と堀は"二ノ構"と呼ばれており、城との間には岩出山伊達家の重臣たちの屋敷が置かれました」と菅野さん。
私たちは岩出山で唯一残っている二ノ構の土塁を見学させてもらった。私有地に残る土塁は高さ2〜3m、幅7〜8mあると思われる。土塁に沿って水路があるが、かつては広い堀だったという。
「実は岩出山城は小規模ながらも総構があったのです」と菊地さん。総構とは城の周りに展開する城下町の主要部分を堀や土塁で囲んだ構造のことだ。「今見ている二ノ構土塁の外側に、江合川の氾濫にも備えた土塁が北と東にあって、一ノ構と呼ばれていました」
この岩出山城下の総構の構造は、徳川家康の基本設計ではないかと菅野さんは考えている。岩出山城に配置された守りの数々に驚くとともに、城跡を歩くことでかつての姿が鮮やかに浮かび上がってきた。この町の城や城下町の姿が、徳川家康と密接に関連しているという菅野さんの指摘は、とても興味深い。
伊達政宗は天正19(1591)年から仙台に移る慶長6(1601)年まで岩出山を居城とした。しかしその間、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いなどもあり、実際に岩出山にいたのはわずか数カ月程度だったという。政宗が仙台城に移った後は、四男の宗泰に岩出山城(のちに要害)が与えられた。そして宗泰の子孫である岩出山伊達家の居城として幕末まで存続した。
岩出山城(城山公園)
- 住所
- 宮城県大崎市岩出山字城山42-2
- 問い合わせ
- 大崎市教育委員会文化財課
- 電話
- 0229-72-5036
※取材時の情報です
- 住所
- 宮城県大崎市岩出山字城山42-2
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- 大崎市教育委員会文化財課
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- 0229-72-5036
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サイト掲載日
雑誌掲載日
※本記事の情報は掲載時の情報です
- 取材・文:菅原ケンイチ
- 写真:菊地淳智








