北海道・北東北の縄文遺跡群
御所野遺跡(一戸町)

馬淵川に沿った台地の上、広大なエリアに「御所野遺跡」のムラがあった。世界遺産は17の縄文遺跡で構成されているが、岩手ではこの御所野のみが選定された。(写真提供/一戸町教育委員会)
東北・北海道は縄文時代の先進地だった。御所野の縄文人は定住をしながら、深い精神性を持つ豊かな文化を営んでいたのである。
岩手を代表する縄文遺跡
岩手の県北、一戸町にある「御所野遺跡」。ここは2021年にユネスコに登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する遺跡のひとつである。このとき世界遺産になった遺跡は17あるのだが、そのうち岩手県では唯一の選定だった。
御所野遺跡は5000前〜4200年前のおよそ800年間にわたって営まれた、大規模な拠点集落の跡である。
そこは馬淵川が臨める河岸段丘の、東西に細長い台地になっており、背後には山がある。面積は7万5千平方メートルと実に広大だ。川は食料となるサケが遡上し、他の集落との交流のための交通路にもなっていた。そして周囲の落葉広葉樹の森はクリ、クルミ、トチなどの木の実や山菜、キノコが豊富に採れ、シカやイノシシなどの動物が捕獲できる場所だったのである。
御所野はほぼ手つかずの状態で残されていた遺跡である。ここは1989年、工業団地を造成するための事前調査で大規模な遺跡であることがわかり、保存が決定した。
御所野遺跡はその景観の素晴らしさも大きな魅力だろう。山間の台地にあり、現地に立てば人工物がほとんど見えないのである。ここまでロケーションに恵まれた遺跡はそうそうなく、縄文人がそこから現れてくるかのような感覚にさえなれる。
御所野遺跡の豊かな自然に囲まれた「縄文里山」の風景には心が安らぐとともに、なぜか懐かしささえ覚えるのである。
御所野遺跡での大きな発見
御所野遺跡には東、中央、西に分かれて3つのムラがあった。縄文人が暮らした建物は「竪穴住居」である。これは地面を掘り下げて床面を作り(これが竪穴の意味)、柱を地面に立てて屋根を葺き下ろした。建てられた住居は数棟でグループになっており、800年間では延べ800棟以上あると見られている。
1996年にはこの御所野遺跡の調査で、竪穴住居の屋根に土が使われていたことを発見した。その後の研究で土の屋根は全国的なものであることがわかっている。
以前に御所野の復元された竪穴住居に入ったことがあるが、温度変化が少なく、意外にも快適な空間だったことを覚えている。そして火を焚いているので湿度が適度な状態に保たれ、燻蒸の効果で虫も少なく衛生にも優れた環境なのだという。
これら建物の柱にはクリの木が使われていた。クリは縄文人にとっての重要な樹木で、クリの実は保存のきく貴重な食料であるとともに、木材は堅く耐久性があるため、柱や容器などの道具に、そして燃料にも使われた。また樹皮は屋根の下地にも利用された。三内丸山遺跡でのDNA調査によって、縄文人はクリの木の栽培をしていたことがわかっている。


縄文土器の先進性
縄文時代の大きな特徴のひとつに土器がある。縄文人の土器使用は北東アジアで最古といわれ、青森県の大平山元遺跡から出土したものは、1万5千年前のものとわかっている。
土器の発明が重要なのは煮炊きができるようになったことである。堅いものを柔らかくしたり、木の実や植物のアクを抜いたりして、食べる物の幅が大きく広がった。また採取した木の実などの保存も容易になったのである。
御所野遺跡からはバケツの形をした「円筒土器」が出土する。世界遺産になっている南北海道から北東北のエリアは「円筒土器文化圏」といわれている。縄文人はこれまで想像していた以上に、広域でのつながりを持ちながら、その中で文化を共有していたのである。
御所野のムラの中央は平坦に整備されており、石が組まれた環状の配石遺構群が2つ並んでいる。発掘の結果そこは墓域だったと推定されている。
近くの盛り土遺構からは焼かれた動物の骨や土偶、土製品など、まつりに関わる遺物が集中的に出土していることから、火を用いた祭祀が繰り返し行われたと見られている。
東側の配石遺構は広場の周りを掘立柱の建物が、中心を向いて環状に立っており、祭祀時には掘立柱の建物に死者を安置したとも考えられている。おそらく当初は単に「まつり」の場所だったものが、やがて死者を「送り」、祖先をまつるという要素が加わってきたと見られている。
配石遺構群の中に大きな板状の花崗岩がある。これらは調査の結果、ムラから見える「茂谷山」から運んだものとわかった。相当な重量の岩を数kmも離れた山から谷を越えて運んだということに驚く。彼らにとって「まつり」はよほど重要だったと見られる。そして茂谷山が極めて神聖な山だったことから、運んできた花崗岩は「祖先や自然を崇拝」するための重要なものだったと思われる。
驚くことだが、縄文の研究が進んだことにより、彼らが住居地を造るときに、信仰の対象とする「山」が見える場所をあえて選んでいたと考えられているのだ。
日本人にはお盆に象徴されるように今も祖先を大切にまつる習慣がある。人は亡くなると魂が山に帰り、やがて神(祖霊神)になるという日本人の古い信仰は、すでに縄文時代に原点があったとさえ思える。


石器時代から縄文時代へ
今から1万5000年ほど前に氷河期が終わり、地球が温暖化してくると、日本では旧石器時代から縄文時代に移行することになる。
温暖化により落葉広葉樹林が発達し、海面上昇(最大120m上昇している)と降雨で土砂が海に堆積し、沿岸魚介類の生育環境が良くなる。
その結果、移動の生活から定住での生活に変わり、各地に縄文集落が作られていった。
この時代に北海道南部から北東北の一帯は、動植物の豊かな生態系を持つブナなどの林(堅果類を特徴とする落葉広葉樹林)が広がり、豊富な水産資源(内陸ではサケ、マスなどの遡上)に恵まれた環境にあった。
世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、縄文時代を通じて1万年以上もの長い期間、採取、狩猟、漁労から幅広く得られる食料を基盤に各地に大きな定住集落が営まれた。そして広いエリア内で交流を持ちながら縄文独自の技術と精神文化を発展させていった。
この世界遺産のエリアは、「円筒土器文化」という名の共通文化でつながっていた。そして定住の開始から発展、成熟まで一連の歴史を示す遺跡が存在し、それらが多数保存されているのである。
御所野遺跡があったのは5000年〜4200年前と縄文中期の後半であり、定住が発展していった時期の後半にあたる。
縄文人はすでに広域での交易を行っていたことがわかっている。例えば御所野遺跡からは新潟のヒスイや秋田の黒曜石、アスファルト、北海道日高地方のアオトラ石などが見つかっている。これらは道具や装飾の材料としての価値が高かった物である。それらをはるばる各地の縄文人と交流を持ちながら交易をしていた。御所野からは馬淵川を下って八戸に出ることになる。そして例えば北海道に行く場合、丸木舟を操りながら、海流に乗って往来していたとも考えられている。なにやらおとぎ話のようでもあり痛快でもある。


縄文人の技術と芸術性
彼らは魚を捕るにしても、巧みに道具を使っていた。動物の骨や鹿の角などを材料に精巧な釣り針を作り、驚くことに魚を逃がさないよう「かえし」まで付けていた。釣りの他にも錘を付けた網や、突き漁の道具も作り、大型のものではマグロやブリなども捕っていた。
縄文人を特徴づけるもののひとつに「土偶」がある。土偶はほとんどが欠損した形で出土しており、祭祀や呪術の際に使われたと考えられている。多くは女性の姿をしており、豊穣や安産、厄災除けや病気平癒、あるいは再生の祈りが込められたと思われる。
そこには焼き物としての技術の高さとともに、芸術性と精神性が見て取れる。縄文の土偶や土器に高い芸術性を見出したのは、岡本太郎であった。
広く往来していた縄文人
御所野遺跡は北東北以南にあった「大木式土器文化圏」の影響も強く受けていた。4500年前頃になると、中央の墓はそのままにやがて集落は縮小しながら、御所野周辺の地域へと散らばっていった。そして御所野遺跡はまつりの場に特化した「祭祀センター」としての役割が強くなっていったと考えられている。
それ以降、北の縄文世界では祭祀の場と住む場所がはっきりと分かれるようになり、秋田県の大湯環状列石といった大規模な環状列石(ストーンサークル)が作られていくのである。
日本の縄文時代は1万5000年前から2400年前まで続いた。縄文晩期に北九州に稲作が伝播し、それ以降日本は稲作農耕文化を基盤とした弥生時代になるのである。


縄文の新たな文明観
これまで狩猟採集時代は、文化を持たない未開の世界であり、農耕の始まりによって文明が開花したものとイメージされてきた。
しかし縄文人は農耕世界とは別のステージで、独自の文化を発展させていたのである。これは世界の文明を見ても特筆されることだ。近年の発掘研究の進展により、驚くほど豊かな縄文世界が見えてきた。そこに貧富の差はなく、豊富な食料を基盤に持続性ある生活を営むとともに、装飾性の高い土器や土偶を作るなど、豊かな精神性を持った社会だったといえる。
特筆すべきは、縄文時代には戦乱がなかったとされることである。遺跡からは弥生時代以降のように、人骨に残った戦いの跡がほとんど出ていないのである。弓矢は使いこなしていたが、あくまでも狩りのための道具だったのだ。
御所野遺跡も含め縄文遺跡の多くはまだ発掘の途上にあり、全容がわかっていない。それだけに今後も縄文世界の実像がさらに明らかになってゆくことが期待される。
現代は科学技術の進歩により人類が大いに繁栄している。しかしその反面、貧富の格差や大規模な戦争、そして環境破壊、地球温暖化といった負の側面が大きくなっている。私たちは本当に縄文人より豊かといえるのか、はなはだ疑問にさえ感じてしまう。
縄文人のDNA
「私たちは縄文人の末裔なのか」。東北に住んでいる人間であれば、そうした思いはあるだろう。稲作の伝来以降日本に大陸人が入り、混血を繰り返した。近年の理化学研究所などの研究によると、東北人の遺伝情報での縄文系の割合は約2割といい、日本人の中では多い方だという。つまり北方の日本人は一定程度縄文人の血を受け継いでいるわけだが、私たちはそれ以上に縄文人の精神文化を受け継いでいると思えるのだ。


サイト掲載日
雑誌掲載日
※本記事の情報は掲載時の情報です
- 取材・文:菅原ケンイチ
- 写真:菊地淳智



